絵はがき「国立公園 奥摩耶 Okuyama National Park」、1956(昭和31)年頃
第二次大戦後の1955(昭和30)年に摩耶ケーブルが復活、合わせてロープウェイも開通し、摩耶山を含めた六甲山地域が瀬戸内国立公園に指定編入された56(昭和31)年頃に発行されたと思われる絵はがき集。構成は実質7枚からなる、後に紹介する夜景のものは2枚分(分割可能)を使用しているので、8枚組ともとらえられる。タイトルの通り奥摩耶、つまり摩耶山頂部を中心にした内容であり、戦前から整備されたケーブル摩耶駅周辺(摩耶山中腹部)は、天上寺のみが登場するだけで、マヤカン等は確認できない。これは当時、奥摩耶の観光施設の整備が進んだ一方で、元の中心であった中腹部は、ケーブルとロープウェイの単なる乗り換え地点になっていたためと推測される。発行は特に記載がなく不明なままだが、表紙裏の地図の下に丸に「大」の紋が描かれ、横に「神戸店納」と記載されている。このことから、この絵はがき集は、神戸元町の大丸神戸店で販売されていたものと考えられる。なお絵はがきは、一見カラーなのかと感じられるが、実際には白黒写真に彩色したものである。
表紙
絵はがき1 国立公園奥摩耶 摩耶ケーブル Cablecar to Maya.
絵はがき2 国立公園奥摩耶 奥摩耶ロープウェー Ropeway to Oku-Maya.
絵はがき3 国立公園奥摩耶 遊園地と展望台虹の懸橋 Oku-Maya Recreation Ground.
絵はがき1 国立公園奥摩耶 摩耶ケーブル Cablecar to Maya.
絵はがき2 国立公園奥摩耶 奥摩耶ロープウェー Ropeway to Oku-Maya.
絵はがき3 国立公園奥摩耶 遊園地と展望台虹の懸橋 Oku-Maya Recreation Ground.
ロープウェイ開通と同時に整備された山頂地区の光景。中央やや上に七色に彩色されたカバーのある場所が、現在も展望台がある「虹の懸橋」である。
当時の奥摩耶には、「虹の懸橋」とともに様々な遊戯施設も存在していたが、現在でもその魅力が語り継がれるものが、ここに登場する「マウントコースター」である。これは参考サイトによれば、1956(昭和31)年7月25日に「完成」(オープンか?)し、このはがきの通り、「山上を周回したあと大きく山を飛びだし眼下の市街地へ飛び出した」(ナダタマ-ナダ用語辞典)、小規模ながらスリルある乗り物として人気を博したという。1970年代に摩耶山観光の不振から撤去されたが、その痕跡は80年代に整備された自然観察園内に今も残されている。
参考サイト
夏草や −ひょうごの遺構を訪ねる 12.奥摩耶山上遊園地(神戸市灘区) スリルと眺望 人気呼ぶ(2006/08/11)
ナダタマ-ナダ用語辞典:灘の用語-1:あ行;奥摩耶遊園地
なだだなPDFダウロードページ
情報誌「なだだな」4号(1999.4)
神戸文書館 神戸歴史年表
現在、掬星台からの夜景は「日本三大夜景」に数えられ、その美しさで全国的にも有名であるが、この絵はがきにある通り、千万ドル、一千万ドルの夜景などとも表現されている。三大夜景や千万ドル、あるいは美しい夜景に対して「百万ドルの夜景」と表されることについては、諸説が存在して判然とはしないが、摩耶山の夜景については、六甲山からの夜景が百万ドルと表されていたことに対して、同地のそれはより美しいとのことで千万ドルになったといわれている。
参考文献
『六甲山とともに五十年』六甲摩耶鉄道株式会社、1982、56頁
当時の奥摩耶には、「虹の懸橋」とともに様々な遊戯施設も存在していたが、現在でもその魅力が語り継がれるものが、ここに登場する「マウントコースター」である。これは参考サイトによれば、1956(昭和31)年7月25日に「完成」(オープンか?)し、このはがきの通り、「山上を周回したあと大きく山を飛びだし眼下の市街地へ飛び出した」(ナダタマ-ナダ用語辞典)、小規模ながらスリルある乗り物として人気を博したという。1970年代に摩耶山観光の不振から撤去されたが、その痕跡は80年代に整備された自然観察園内に今も残されている。
参考サイト
夏草や −ひょうごの遺構を訪ねる 12.奥摩耶山上遊園地(神戸市灘区) スリルと眺望 人気呼ぶ(2006/08/11)
ナダタマ-ナダ用語辞典:灘の用語-1:あ行;奥摩耶遊園地
なだだなPDFダウロードページ
情報誌「なだだな」4号(1999.4)
神戸文書館 神戸歴史年表
現在、掬星台からの夜景は「日本三大夜景」に数えられ、その美しさで全国的にも有名であるが、この絵はがきにある通り、千万ドル、一千万ドルの夜景などとも表現されている。三大夜景や千万ドル、あるいは美しい夜景に対して「百万ドルの夜景」と表されることについては、諸説が存在して判然とはしないが、摩耶山の夜景については、六甲山からの夜景が百万ドルと表されていたことに対して、同地のそれはより美しいとのことで千万ドルになったといわれている。
参考文献
『六甲山とともに五十年』六甲摩耶鉄道株式会社、1982、56頁